近代将棋1995年6月号、毎日新聞記者の加古明光さんの第53期名人戦〔羽生善治名人-森下卓八段〕観戦記「森下、痛恨の8三桂」より。
冒頭から関係者各位、ファンのご厚意に感謝申し上げる。
今期名人戦は、昭和10年、時の関根金次郎十三世名人が画期的な実力制名人戦を提唱して60年になる。以来、誕生した名人は第1期の木村義雄名人から羽生名人まで9人。60年の間にわずか9人というのが、名人戦の重さ、深さを示しているが、60年を記念して今期第1局はさまざまなイベントを企画した。
大成功だった。将棋界始まって以来のイベントだろう。
名人戦は7年前のNHK衛星放送の実験段階からナマ中継をしている。ただ、ヤマ場になる決着の時間は放映されない。これを全国のファンに届けられないか、というのがイベントの骨子だった。将棋連盟、富士通、NTT、NHKの協力を得て、放映されない盤上の画面をNTTの通信回線を使って全国11ヵ所の会場に配信、ここに連盟から棋士を派遣して大盤解説や各種イベントを行う。北は札幌から南は福岡まで、京都の対局現場から同時進行の画面を届けようとする企画だ。
連盟も棋士を総動員した。谷川王将は札幌に飛んだ。中原永世十段は仙台に赴いた。米長前名人は東京・池袋で担当した。連盟職員も各地に配置された。
対局二日目の8日午後1時から、各地でイベントが始まった。―京都の取材本部に刻々と連絡が入ってくる。「名古屋は人であふれている」「福岡(博多駅)もいっぱい」「東京は入場制限をした」など、午後4時で4000人を超え、最終的には延べ2万人に達した。二日目の夕食休憩時、羽生にその話をちらっともらした。「えっ、そんなに集まったんですか」と驚きの声を出した。当事者ですら驚くほどのフィーバーだった。一つのタイトル戦が、これほどの動員をしたのは空前だろう。冒頭から”盤側”の話を持ち出したのも、関係者にまず謝意を表したいからだ。
さて、その名人戦第1局は、桜がほころび始めた京都宝ヶ池プリンスホテルでスタートした。5年前、谷川-中原の名人戦が行われた同じ場所。同ホテルに隣接する純和風の「茶寮」が対局場である。
前日、ファンも参加した前夜祭が開かれた。女性客の多いのに改めて驚く。つい数年前は中年以上の男性ばかり(?)だった。ここに和服の女性も登場している。大盤解説もそうだが将棋界はファン層を確実に広げていることを実感した。両対局者はファンに囲まれ、写真を撮られ、ほとんど食事をする暇もない。途中で退席しホテル内のレストランで改めて夕食をとってもらった。
この時、私は羽生と同席したのだが、羽生の不思議なところは、こうしたプライベートな場所と、対局室での羽生がまったく別人になることだ。食事時は健啖であり、談笑が続き、一人の素直な青年である。これが、対局に臨む時になると、ほとんど”無愛想”。頭の中はすべて盤上という顔になる。
4月7日。快晴。京都・洛北の小高い自然は色とりどりの春の趣を見せていた。芽生えた緑があれば、くすんだ冬のままの木々もある。遅咲きのピンクの梅がある一方で、淡い桜の花も開き出している。
ホテルはモダンだが、この茶寮は自然の林につつまれ、前の池には鯉が悠然と泳ぎ、しかも16畳の広さに控え室もあって、対局には最適だ。通常は茶席や懐石料理、さらには結納の席にも使われるそうで、その担当が、本局の接待を担当している鈴木暁子さん。もっと緊張しているかと思ったが、「意外に気さくなところもある人ですね」と、意外な返事。やはり、同じ20代の気安さだろうか。しかし、二人の接待を二日間ぶっとおしで続けた心労は大変なものだったろう。
前夜祭に出席し、ホテルに宿泊したファンも盤側に座って対局準備完了。10分以上も前に着座した森下に対し、羽生は5分ほど前に入室した。観戦者の中から声にならない声が出た。羽生の和服が色鮮やかなのだ。薄いベージュの羽織にウグイス色の袴。羽織のヒモが新緑のような色合い。羽生専属のスタイリストがいるのか。
(中略)
すでに二日目の対局に入っている。この日も快晴。前日からの暖かい陽気で、周囲の桜が一気に開花したようだ。
(中略)
森下が△3五角と攻防の一手を放って、はっきり「森下ペース」と診断された。挑戦者が先行した方がシリーズは面白い。決して森下びいきではないが、何となく「行け行け」ムードになってきた。
(中略)
遠くから異様なブザー音が聞こえる。
「ン?何でしょうね」と羽生が訝しげな顔をした。長年、棋士と付き合ってきて共通するのは、異常音とか、ぼそぼそと小さく語り合う口調だ。またフスマの陰からそっとのぞき見するのも嫌う。音の発生源が分かれば納得する。堂々と対局室に入って、その本人が何者であるかが分かれば了解する。とにかく、ファジーなものは気になるのだ。
ブザー音をさぐりに、ホテル玄関に出向いた。駐車場の車の呼び出しブザーだった。この日は土曜日の大安。結婚式ラッシュだった。そのせいだろう。羽生も納得して再び対局に没頭する。そこにまたハプニングが生じた。
局面は森下が△3二銀で竜をはじき返し△4六角右と二枚角で相手陣に照準を合わせたところである。
(中略)
室内にはテレビカメラ用のケーブルが引かれている。このため障子にわずかの隙間がある。ここからライトを目当てにしてブヨなどの小虫が入り込んできたのだ。それがみるみるうちに増えて、あつかましくも盤上にも跳ねている。
最初は手で払っていた対局者も、さすがにたまりかねてきた。急遽、隙間を紙で目張りをして、ぬれ雑巾で畳をふいた。のちに、ホテル側がしきりに恐縮していたが、これはホテルのせいではない。それだけ自然に囲まれたところであり、隙間が開いていたためである。テレビで”拭き掃除”をご覧になった人には、それを弁明としておこう。
△1八とと飛を手にして、森下の優勢は動かず。対局室と取材本部は遠く離れている。観戦子他、当事者だけがこの対局室にいる。終局間近を予想してか、ホテルロビーに、こちらに向かいつつあるカメラマンの姿が遠望し始めた。
△7九銀で森下の寄せの体制完了。△4八飛で森下の先勝は動かないものになった。ところが・・・。
7図以下の指し手
▲8五銀△7八飛成▲同玉△6八飛▲7七玉(途中図)
ここで△9五金なら、次に△8八飛成を見て森下八段の勝ちだった。▲7五歩としても△8五金で状況は変わらず。▲6五歩でも△8五金▲3五金△8八飛成▲6六玉△5四桂▲5七玉△4八銀まで。
また、この局面で、△6七飛成▲8六玉に△8三桂でも勝ち(▲8四銀には△7四金)。
途中図以下の指し手
△8三桂 (途中2図)
ずいぶん、タイトル戦を見ているが、こんな劇的な終局を経験したことがない。
本局ではあえて細かい変化手順を述べなかった。両者、互角にわたりあってきた。その枝葉末節は、いいだろう。第1局のすべては、森下の108手目の△8三桂に集約されているからだ。この対局がのちに語られるとすれば(森下には気の毒だが「△8三桂の将棋」と言うだけで十分だろう。
盤側にいても、羽生の覇気が消えて行くのが分かった。トイレから帰ってきて座る時も疲労の色があった。しかも、私が見ていても森下の優勢だと分かる。羽生の膝上に置いた手にも元気がない。
その羽生の目が、初めて”羽生にらみ”を見せた気がした。森下の顔が急に紅潮した。これを盤側は「勝局を目前にした森下の高揚」と思っていた。
ところが、終局わずか8手前の△8三桂で将棋はひっくり返ったのである。ここで△9五金なら、次に△8八飛成を見て勝ちだし、△6七飛成▲8六玉△8三桂でも勝ちは動かなかった。
おそらく、羽生は、どこで投げようかと思っていたのではないか。それが手順前後の桂打ちで▲7五歩の余裕が生じた。もう詰まない。
途中2図以下の指し手
▲7五歩△5四金▲3五金△5五金▲6八金△8八角▲8六玉まで羽生名人の勝ち。
夜10時半、森下が頭を下げた時、控え室の検討を聞いていなかった私は、思わず目を疑った。心配になって隣の今泉三段の記録用紙をのぞき込んだ。今泉クンは、まぎれもなく「羽生名人の勝ち」と記入している。
こんな勝負もあるのだ。こんな逆転もあるのだ。私は暫く呆然として、感想を聞くタイミングも忘れていた。「先に金を取っていれば」「7五歩と突かれて」と断片的な言葉が出るだけ。勝った羽生にも喜びはなく、湿っぽい雰囲気で感想戦が始まった。
立ち会い、有吉九段によると、「こんな大逆転は、昭和27年の木村-升田戦以来だ」
名人戦は、悔やんでも悔みきれない森下の錯覚でスタートした。だれもが「こうした負け形は尾を引く」と言う。私もそう思う。だが、その後、森下は竜王戦で佐藤康光前竜王を降し、東京で開かれた将棋大賞、昇級、昇段者の記念パーティにも元気な姿を見せていた。
気分転換も若者の特権だ。2局以降のチャンネル切り替えと頑張りに期待しよう。
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名人戦60周年を記念した名人戦フェスティバル。
リアルタイムの映像が配信される初の全国一斉大盤解説会。
盤上を覆う蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲・・・
森下卓八段が「こりゃ駒より多い虫ですね」と悲鳴をあげたという。
そして、森下卓八段(当時)痛恨の△8三桂。
京都という舞台を背景に、非常に印象に残る1995年名人戦第1局。
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羽のある虫が大の苦手の渡辺明竜王ならば、残り時間にもよるが、対局室から一時避難してしまいそうな状況だ。